シンデレラクエスト

その子の名は、アーシャといいました。

朝になると、アーシャは誰よりも早く起き、かまどの灰をかき出しました。

冷えた床を拭き、洗い桶に水を張り、継母の靴を磨き、姉たちの服を整えました。

手はいつも灰で汚れていました。

膝には、床をこすった跡が残っていました。

髪にも、服にも、うっすらと灰がついていました。

けれど家の中で、それを苦しみと呼ぶ人はいませんでした。

その家では、見ることは疑うことでした。

聞くことは責めることでした。

できることとできないことを分けることは、わがままでした。

外に話すことは、裏切りでした。

待たせることは、迷惑でした。

降りることは、逃げでした。

けれど、それは、ひどいこととは呼ばれていませんでした。

その家では、それを礼儀と呼んでいました。

誠実と呼んでいました。

調和と呼んでいました。

責任と呼んでいました。

アーシャも、ずっとそう思おうとしていました。

舞踏会の日の朝。

家の中は、いつもより慌ただしくなっていました。

継母と姉たちは、城へ出かける支度をしていました。

ドレスの仕立て直し。

靴の受け取り。

香油や髪飾りの相談。

今夜のために、三人は朝から落ち着きませんでした。

アーシャだけが、いつもの仕事をさせられていました。

継母が言いました。

「見れば分かることです。

 今さら確かめたり、聞き返したりしないで」

そのとき、家の外から、小さな音がしました。

ちりん。

アーシャの目の前に、蜘蛛の巣のようなものが、ふわりとかかった気がしました。

アーシャは、まばたきをしました。

気のせいだと思いました。

姉が言いました。

「できるかできないかを言い出したら、家が回らなくなります。

 外の人に話せば、大ごとになるだけです」

また、外の方から音がしました。

ちりん。

今度は、唇に細いものが触れたような気がしました。

アーシャは、手で払いました。

けれど、それはすぐに見えなくなりました。

もう一人の姉が言いました。

「今は止まっている時間はありません。

 ここまで来たなら、最後まで続けるのが責任でしょう」

そのときも、外の方から音がしました。

ちりん。

アーシャの足首に、何かが引っかかったような気がしました。

ただ、下を見ても何も見えませんでした。

アーシャは、気にしすぎかと思って、朝食の後片づけに戻りました。

それらは、どれも一方的な言葉でした。

けれど、言っている側からすれば、どれも正しいように聞こえました。

だからアーシャは、見ないようにしました。

聞かないようにしました。

分け直さないようにしました。

外に話さず、待たせず、途中で降りないようにしました。

やがて、継母と姉たちは町へ出かけていきました。

家に残されたのは、アーシャだけでした。

洗い物は、もう終わっていました。

昼の支度までには、まだほんの少しだけ時間がありました。

逃げ出すつもりはありませんでした。

仕事を投げ出すつもりでもありませんでした。

ただ、家の中は、しんと静まり返っていました。

継母の声も、姉たちの声も、もう聞こえません。

皿の音も、水の音も、止まっていました。

その静けさの中で、鈴の音だけが、外から絶えず聞こえ続けていました。

それは、もう空耳ではありませんでした。

すぐに戻れば、きっと大丈夫。

アーシャはそう思い、水桶を戸口のそばに置いたまま、通りへ出ました。

町へ出れば、何かが分かるかもしれない。

そう思いながら、蜘蛛の巣を払うようにして、歩いていきました。

けれど、町も家と同じでした。

町では、見ない人が、信じている人と呼ばれていました。

聞かない人が、やさしい人と呼ばれていました。

分け直さない人が、潔い人と呼ばれていました。

外に話さない人は、口の堅い人と呼ばれていました。

待たせない人は、迷惑をかけない人と呼ばれていました。

降りない人は、責任のある人と呼ばれていました。

町も穏やかでした。

誰も怒鳴っていませんでした。

誰も争っていませんでした。

みんな、うまくやっているように見えました。

アーシャは、あの鈴はこの町の中にはないと思いました。

通りには店が並び、多くの人が行き交っていました。

そこは、城下町の一番にぎやかな大通りでした。

その先に、外堀を渡る橋があり、

その向こうに城門が見えました。

アーシャが歩きながら眺めていた大きな時計は、

大通りと橋の間にありました。

その大きな時計の中では、何人もの人が働いていて、

巨大な歯車を押し、長くて重い針を、毎日まいにち回し続けているとのことでした。

それは、町の人々に正しい時を知らせてくれる、ただ一つの時計門でした。

大通りをまたぐその時計門のたもとに、古くて小さな武器屋がありました。

鈴の音はここから聞こえてきているのではないか、とアーシャは思いました。

武器屋と呼ばれてはいましたが、

店というには寂しく、家というには手狭な小屋でした。

人が長く暮らす場所というより、

誰かがしばらく身を置くための場所に見えました。

それは、かつて時計門を建てる人々が使っていた、小さな事務所の名残でした。

本来なら、そこは商売をする場所ではありませんでした。

けれど、城下町での武器の売買は禁止されていたのです。

その店からは、城下町の方を向いた時計門の裏側も見えました。

町の人々がふだん見ない、巨大な針の背中も見えました。

その店先に、年配の女性が立っていました。

女性は、古い鞘に納められた剣を持っていました。

剣の柄には、小さな鈴が結ばれていました。

鈴は、淡い黄色に光っていました。

その女性は、店を開いているというより、

何かを待っているように見えました。

アーシャがその剣を見ていると、女性は静かに言いました。

「これは、敵を斬るための剣ではありません」

アーシャは、驚いて顔を上げました。

「では、何を斬るのですか」

女性は答えました。

「糸を斬るのです」

「糸?」

「そう。ふだんは見えない糸です」

女性は、剣についた鈴に指先で触れました。

「見ることを疑いに変える糸。

 聞くことを責めることに変える糸。

 分け直すことをわがままに変える糸。

 呼ぶことを裏切りに変える糸。

 待つことを迷惑に変える糸。

 降りることを逃げに変える糸」

アーシャは、黙って聞いていました。

「鈴が鳴れば、糸が見えます。

 糸が見えれば、この剣で斬ることができるはずです」

「糸を斬れば、どうなりますか」

「失われていたコマンドが、ひとつ戻ります」

女性は、剣を持ち上げました。

「剣があれば、糸は切れます。

 でも、剣がない時には、言葉が要ります」

「言葉?」

女性は、少しだけやわらかく笑いました。

「メルメル」

アーシャは、その言葉を繰り返しました。

「メルメル」

「固まった糸を、溶かす言葉です。

 体の外へ取り除きます」

女性は、自分の手首にそっと息を吹きかけるようにして言いました。

「メルメル」

「それが、おまじないですか」

「娘には、そう聞こえていたでしょうね」

女性は、遠くの城門を見ました。

「怖くて足が動かなくなったとき。

 泣いて声が出なくなったとき。

 それは糸が絡まった合図。

 そんな時、私はいつもそう言ってあげていました」

アーシャは、思い出しました。

家で、目の前にかかった蜘蛛の巣のようなもの。

唇に触れた細いもの。

足首に引っかかった何か。

あれは、気にしすぎではなかったのかもしれない。

女性は、剣をアーシャに差し出しました。

「斬るのは、人ではありません。

 糸だけです」

アーシャは、剣を受け取りました。

その瞬間、鈴が鳴りました。

ちりん。

アーシャの目に、細く青い糸が浮かびました。

見てはいけない。

気づいてはいけない。

見れば、疑っていることになる。

その糸は、そう言っているようでした。

アーシャは、糸に剣をはわせました。

糸が、ぷつりと切れました。

すると、アーシャの心に、コマンドがひとつ現れました。

みる

アーシャは、改めて時計門を見上げました。

今まで見えていなかったものが見えてきました。

その人たちは、歩いているようで、歩かされているようでした。

働いているようで、働かされているようでした。

目は開いているのに、何も見ていないようでした。

耳はあるのに、何も聞こえていないようでした。

唇は動いているのに、自分の声ではないようでした。

手も、足も、思いとは裏腹の方向に動いているように見えました。

巨大な針は、町の時間を動かしていました。

けれど、その人たちの時間は、止まっているように見えました。

アーシャは剣を鞘にしまい、女性を見ました。

この人は、なぜこんな場所にいるのだろう。

なぜ、城門の方を見ているのだろう。

なぜ、この剣と鈴を持っていたのだろう。

アーシャがそう思っていると、女性が言いました。

「私は、人を探しています」

「どなたを、ですか」

女性は、少しだけ城門の方を見ました。

そして、首を横に振りました。

「その人のために、今は言えません」

アーシャは、それ以上は聞きませんでした。

けれど、この人の名だけは、覚えておきたいと思いました。

「お名前を、伺ってもよろしいですか」

女性は、少しだけ目を伏せてから答えました。

「セレナです」

アーシャは、その名を覚えました。

セレナ。

月の形をした髪飾りをつけた、剣と鈴の人。

アーシャは、城へ向かいました。

橋を渡ると、城門がありました。

城門の前には、強そうな門番が立っていました。

門番の肩には、小さな赤い蜘蛛が乗っていました。

門番は言いました。

「その剣と鈴を持ったままでは、城には入れない」

「なぜですか」

アーシャがそう言いかけると、門番の肩の蜘蛛が赤く光りました。

門番は続けました。

「ここでは、確かめず、聞き返さず、条件を出さず、外に話さず、立ち止まらず、途中で降りない者だけが、誠実な者とされる」

アーシャは迷いました。

せっかくセレナが託してくれた剣と鈴でした。

けれど、城の中に何があるのか知りたいと思いました。

アーシャは、剣と鈴を門番に預けました。

門番は、それを城門の脇に立てかけました。

城門をくぐると、庭がありました。

庭の中には、玄関へ続く石畳がありました。

玄関の向こうには、広い階段がありました。

城の中では、舞踏会の準備をしていました。

王様がいて、王子がいて、兵士たちが巡回していました。

誰も怒っていませんでした。

誰も争っていませんでした。

けれど、城の中でも、同じ言葉が聞こえてきました。

「見れば分かることだ」

「聞き返すな」

「できるかどうかを言い出すな」

「外に話すな」

「今すぐ動け」

「ここまで来たなら、降りるな」

アーシャに、糸はもう見えていませんでした。

剣も鈴も、門番に預けてしまったからです。

気づけば、アーシャは、城の階段の手すりを雑巾で拭いていました。

家にいた時と同じでした。

階段には、家にはない赤い絨毯が敷かれていました。

けれど、膝をついて雑巾を絞っている自分は、少しも変わっていませんでした。

周りにも、たくさんの人が掃除をしていました。

誰も文句を言いませんでした。

誰も顔を上げませんでした。

アーシャの心に、あの時現れた みる は、もうありませんでした。

気づけば、したがう しかありませんでした。

そのとき、ふと階段の上に、一人の少女の後ろ姿が目に入りました。

少女の髪には、小さな月の髪飾りがありました。

アーシャは、それを見てしまいました。

けれど、すぐに目を逸らしました。

掃除をしなければ。

よそ見している場合ではない。

髪飾りがどうしたというのだ。

自分には関係ない。

そのとき、アーシャの胸の奥で、鈴が鳴りました。

ちりん。

それは、剣についていた鈴ではありません。

けれど、確かに同じ音でした。

アーシャの手首に、細い青い糸が浮かびました。

今すぐ戻れ。

すぐに手を動かせ。

立ち止まっている時間はない。

その糸は、そう言っているようでした。

アーシャは、セレナの言葉を思い出しました。

「メルメル」

手首の糸が、溶けてなくなりました。

すると、心の したがう が、ふっと消えました。

代わりに、新しいコマンドが現れました。

まつ

アーシャは戸惑いました。

待っている場合ではない。

掃除をしなければならない。

見つかれば、また怒られるかもしれない。

それでもアーシャは、まつ を選びました。

雑巾を持つ手を、ほんの少しだけ止めました。

膝をついたまま、大きく息を吸いました。

いーち。

にーい。

さーん。

胸のあたりが、少しだけ静かになりました。

よそ見している場合ではない、という声が、少しだけ遠のきました。

掃除に戻らなければ、という焦りが、少しだけ緩みました。

すると、思いがけず、口から小さな言葉がこぼれました。

「セレナ……」

掃除中に、無駄口をたたくことなどできませんでした。

ましてや、城の中で、誰かの名を口にするなどあり得ないことでした。

けれど、手が止まり、息が整ったその隙間から、

その名前が、こぼれ落ちたのです。

月の髪飾りの少女が振り返りました。

その顔は、セレナという名を、知っている顔でした。

少女は言いました。

「その名前は、もしかして」

その声は、セレナにそっくりでした。

驚いたアーシャの胸で、また鈴が鳴りました。

ちりん。

今度は、アーシャの耳に糸が浮かびました。

聞いてはいけない。

尋ねてはいけない。

聞くことは、相手を責めることになる。

その糸は、そう言っているようでした。

アーシャは、もう一度つぶやきました。

「メルメル」

耳に絡んでいた糸が、溶けてなくなりました。

心に、新しいコマンドが加わりました。

まつ

きく

アーシャは きく を選びました。

セレナなら、この少女に何と聞くだろう。

アーシャはしばらく考えてから、言いました。

「あなたは、ここにいたいのですか」

少女は、すぐには答えませんでした。

けれど、その沈黙は、返事を拒んでいるものではありませんでした。

少女はアーシャの目を見つめ、一度瞬きをしました。

少女の心の中に、コマンドが現れました。

おりる

その瞬間、足首に絡んでいた見えない糸が、音もなく溶けていきました。

呪文もありませんでした。

剣もありませんでした。

ただ、聞かれたことで、

少女は、自分の足がどこへ向かいたいのかを思い出したのです。

「いいえ」

その声は、見回りの兵士には聞こえませんでした。

しかし、アーシャにははっきり聞こえました。

「私は、セレナの娘です。ルナといいます」

アーシャは、息をのみました。

ルナは続けました。

「母が、待っているから」

でも、ルナはまだ動けませんでした。

母が待っている。

ここにはいたくない。

でも、どこへ行けばいいのか分からない。

そのはやる気持ちが、アーシャの胸の中で、三度目の鈴を鳴らしました。

ちりん。

今度は、薬指に糸が見えました。

全部引き受けなければならない。

相手の代わりに決めなければならない。

できることと、できないことを分けてはいけない。

その糸は、そう言っているようでした。

「メルメル」

薬指に巻きついていた糸が、ゆっくり溶けて流れていきました。

三つめのコマンドが加わりました。

まつ

きく

むすぶ

アーシャは、その中から むすぶ を選びました。

そして、ルナに言いました。

「門の近くまでなら、一緒に行けるかもしれません」

ルナは、アーシャを見ました。

「でも、出るかどうかは、あなたが決めてください。

 私もそこで、私はどうするか決めます」

それは、命令ではありませんでした。

助けるから従いなさい、ということでもありませんでした。

できることと、できないことを分け直す言葉でした。

アーシャが決めるところと、ルナが決めるところを、結び直す言葉でした。

二人は、兵士たちの巡回を見ました。

歩幅。

向きを変える場所。

すれ違う時に、ほんの少しだけ空く間。

二人は、掃除を続けるふりをしたまま、少しずつ場所を移しました。

階段の手すりを拭く。

広間の窓を拭く。

玄関へ続く床を拭く。

兵士の目が別の方を向いた時だけ、少し進む。

誰かが近づけば、すぐに手を動かす。

やがて二人は、玄関の外へ出ました。

庭では、舞踏会のために、石畳の縁や飾り柱まで磨かれていました。

そのとき、巡回の兵士が二人に気づきました。

「おい。階段係が、なぜ庭にいる」

アーシャの胸は凍り付きました。

戻ります、と言いそうになりました。

すみません、と謝りそうになりました。

何か言い訳をしなければ、と思いました。

ただ、何を言っても聞いてはもらえないと分かっていました。

けれど、アーシャの心には、まだコマンドが並んでいました。

まつ

きく

むすぶ

アーシャは、その中から まつ を選びました。

アーシャはうつむいたまま、すぐには答えませんでした。

その沈黙は、まだ残っていたアーシャの可能性を、自分でつぶしませんでした。

兵士は、庭の方を顎で示しました。

「そこまで来たなら、門のそばも磨け。

 客は門から入る。いちばん目につく場所だ」

アーシャは、顔を上げました。

「急げ。時間がない」

アーシャは、焦って台無しにしなくてよかったと思いました。

ルナが、ほんの少しだけアーシャを見ました。

アーシャも、ほんの少しだけうなずきました。

二人は、雑巾を持ったまま、門へ続く石畳を進みました。

門のそばまで来ると、

剣と鈴は、門の脇に立てかけられていました。

アーシャは、そちらへ手を伸ばしかけました。

そのとき、門番が振り返りました。

「何をしている」

アーシャの手が止まりました。

今度は、待っているだけでは済みませんでした。

アーシャの心には、まだ二つのコマンドが残っていました。

きく

むすぶ

アーシャは、その中から きく を選びました。

「預けたものを、返してもらえますか」

門番は、剣と鈴を見ました。

それから、アーシャとルナを見ました。

「やめておいた方がいい」

怒鳴り声ではありませんでした。

罰すると言われたわけでもありませんでした。

引きずり戻すと言われたわけでもありませんでした。

けれど、門番は続けました。

「きみたちのためにならない」

その言葉のあとに続くものを、アーシャは勝手に想像してしまいました。

この先は、王の一言がすべてを決める。

誰かに知られたら。

戻れなくなったら。

説明を求められて、答えられなかったら。

あったはずのものが、なにもかもなくなるとしたら。

でも、何をされるのかは、分かりませんでした。

ただ、二人とも完全に気圧されてしまいました。

アーシャの心から、

何とか残っていたコマンドが二つとも消えました。

ルナの心からも、階段で目を覚ました おりる が消えていきました。

二人の心は、また したがう だけになってしまいました。

二人は門に背を向けて、とぼとぼと歩き始めました。

やっぱり、こんなことをしてはいけなかったのかもしれない。

一度すると決めたことは、最後までやり通さなければならないのかもしれない。

そのとき、門の外から声がしました。

「ルナ」

二人の足が止まりました。

門の外に、セレナが立っていました。

まるで、今日もそこに来ることを、ずっと前から決めていたかのように。

セレナは、もう一度呼びました。

「ルナ」

ルナの肩が震えました。

門番が、セレナの方へ歩き出しました。

「何度言ったら分かるのだ。

ここにそのような名の娘はいない」

そのとき、門番の手が、門の脇に立てかけられていた剣に触れました。

剣の柄についた鈴が鳴りました。

ちりん。

その音は、ルナの唇に届きました。

そして、アーシャの目にも届きました。

ルナの唇は固まって、ひび割れていました。

呼んではいけない。

大ごとにしてはいけない。

外へ声を出してはいけない。

その時、ルナは思い出しました。

幼いころ、怖くて足が動かなくなった時。

泣いて声が出なくなったとき。

母はいつも、痛いところに息を吹きかけ、

慰めてくれたことを。

それは、痛みをはぐらかすおまじないに過ぎないと思ってきました。

けれど今、ルナは、唇が割れる痛みのあまり、

その言葉を口の中でつぶやきました。

「ふうふう、メルメル」

糸で固められた唇が、すっと溶解して潤っていきました。

ルナの心にあった、したがう が消えました。

代わりに、ひとつのコマンドが現れました。

よぶ

ルナは叫びました。

「お母さん」

その声は、門の外へ届きました。

セレナの目は、ルナをまっすぐ見ていました。

同じ鈴の音は、アーシャの目にも届いていました。

アーシャの目に、前にも見た薄い糸がかかっていました。

メルメル。

目を覆っていた糸は、すっと消えました。

アーシャの心でも、したがう が消え、

代わりに、ひとつのコマンドが現れました。

みる

アーシャの目に、門番の向き、兵士たちの視線、セレナの立つ位置が入ってきました。

そして、ルナの足の止まり方に目が留まりました。

ルナの声は門の外へ向かっている。

目も門の外へ向かっている。

上半身も門の外へ向かっている。

それなのに、足だけが城へ向かっている。

その時、門番はセレナの方を向いていました。

兵士たちも、橋の騒ぎに気を取られていました。

アーシャに残っているコマンドは、みる だけでした。

おりる はありませんでした。

アーシャはもう一度、動けないでいるルナの足を見ました。

糸は見えませんでした。

けれど足だけが、ルナ自身の声に追いついていませんでした。

アーシャには、そこに何かが絡んでいるとしか思えませんでした。

アーシャは、ルナの足首に手を伸ばしました。

足首に触れた瞬間、

指先に、細いものが食い込むような感触がありました。

見えない糸でした。

ルナの目も声も、門の外を向いていました。

胸も腕も、門の外へ向かっていました。

足だけが、まだ城の方を向いていました。

アーシャは言いました。

「行きたいんですね」

アーシャは、見えない糸を握りました。

「今なら、間に合います」

そして、唱えました。

「メルメル」

糸が、溶けて流れていきました。

ルナの足が、ようやく門の外を向きました。

「走って」

ルナは走りました。

セレナのもとへ。

膝を地面についてかがむアーシャの後ろで、

近づく足音に気が付いた門番が振り返りました。

けれど、その時にはもう、ルナは門をくぐっていました。 

アーシャは、それでいいと思いました。

ルナが出られたなら、それでいい。

自分はここに残ってもいい。

おとなしく掃除に戻れば、まだ許されるかもしれない。

門番は剣を握っている。

今さらルナを追いかけるという選択肢は、私にはない。

アーシャには、みる しかありませんでした。

門は見える。

セレナも見える。

ルナが外へ出たことも見える。

門番が剣を握っていることも見える。

けれど、この犠牲になる役をおりるためのコマンドは見えませんでした。

もう終わりなのかもしれない。

その時、門の外からルナの声がしました。

「違います」

アーシャは顔を上げました。

ルナは、セレナのそばでアーシャを見守っていました。

「あの時、あなたは言いました。

門から出るかどうかは、自分で決める、と」

アーシャの胸が、強く揺れました。

そう言った。

確かに、そう言った。

けれど、ルナはもう出られた。

なら、自分はここで終わってもいいのではないか。

それで十分ではないのか。

門番の手が、剣の柄を握りました。

アーシャの膝は、地面に貼りついたように動きませんでした。

おとなしく戻ればいい。

掃除に戻ればいい。

また、したがえばいい。

そうすれば、痛い目に遭わずに済むかもしれない。

でも、胸の奥で、別の思いが起きました。

このまま使い捨てられるのは、嫌だ。

ルナだけでなく、私も、ここにいたくない。

私も、あんな場所に戻りたくはない。

ルナはもう一度叫びました。

「私も決めました。

あなたも、決めてください」

それは、階段でアーシャ自身が むすんだ 言葉でした。

今、その言葉が、アーシャ自身を門の前に立たせていました。

門番が剣を抜きました。

考える時間は、もうありませんでした。

アーシャは、走りました。

刃が、アーシャへ向かって振り下ろされようとした、その瞬間。

アーシャはその場に伏せました。

 と、同時にセレナの声が響きました。 

「その剣で人を斬れば、あなたは蜘蛛の巣にかかります」

門番の手が止まりました。

「一度かかれば、もう自分の足では歩けません。

 自分の声では話せません。

 自分の時間では生きられません」

アーシャは、町の時計門を思い出しました。

巨大な針を回し続けていた人々。

目も、耳も、薬指も、唇も、手も、足も、自分のものではないような人々。

セレナは言いました。

「それでも、人を斬りますか」

門番の手が震えました。

セレナは、ゆっくりと言いました。

「その剣は、人を斬るものではありません。

 糸を切るものです」

門番は、剣を見ました。

自分の手を見ました。

その手は、一瞬、柄を手放しましたが、

またすぐ握り直しました。

そのとき、柄についた鈴が、小さく鳴りました。

ちりん。

門番は、息を止めて、足元を見ました。

何かを踏みつけたのか。

何かを見つけたのか。

アーシャには、はっきりとは分かりませんでした。

ただ、門番の足は、門の前に立ち続けているのに、

その顔は、もうそこに立っていたくないように見えました。

門番は、天を仰ぎました。

そして、叫びながら、剣を地面に突き立てました。

その隙に、アーシャは門の外へ出ました。

門番は、突き刺さった剣を蹴り飛ばしました。

鈴の音が、門の外へ転がりました。

ちりん。

アーシャは、足元に転がる剣と鈴を拾いました。

セレナとルナは、アーシャからそれを受け取りました。

舞踏会の明くる朝。

継母と姉たちは昨夜、舞踏会で姿を消した女性に嫉妬していましたが、

いつも通りいじわるであることに変わりはありませんでした。

けれど、いつもとは違う朝になっていました。

アーシャは、もう糸がかかる感覚を、気のせいだとは思いませんでした。

継母が言いました。

「見れば分かることです。

 今さら確かめたり、聞き返したりしないで」

アーシャは、すぐには動きませんでした。

「まず、何が起きているのかを見ます。

 分からないことは、聞きます」

姉が言いました。

「できるかできないかを言い出したら、家が回らなくなります。

 外の人に話せば、大ごとになるだけです」

アーシャは言いました。

「全部を引き受けるつもりはありません。

一人で抱えきれない時は、誰かを呼びます」

もう一人の姉が言いました。

「今は止まっている時間はありません。

 ここまで来たなら、最後まで続けるのが責任でしょう」

アーシャは、手を止めました。

「すぐには決めません。

そのままでは続けられないこともあります」

すべてがうまくいったわけではありません。

継母はまだ、不満そうな顔をしていました。

姉たちはまだ、ため息をつき続けていました。

仕事も、ほとんど楽にはなりませんでした。

けれど、日が経つにつれ、少しずつ変わっていきました。

アーシャが全部を引き受けなくても、

ルナが手伝ってくれることがありました。

アーシャがすぐに動かなくても、

少しは待ってもらえることが増えました。

アーシャが「このままでは続けられません」と言うと、

靴を買ってもらえたこともありました。

アーシャは、糸を取り除いても、追い出されるわけではない。

ただ、固まっていたものが、少し動き出すだけだったのかと分かり、

拍子抜けしていました。

ある朝、アーシャはいつものように、屋根裏の狭い寝室で目を覚ましました。

ベッドのそばの窓には、ずっと閉ざされたままのカーテンがありました。

朝早くから夜遅くまで働いていると、

自分の部屋のカーテンを開けることなど、いつも後回しでした。

そのカーテンには、蜘蛛の巣がかかっていました。

これまでなら、見なかったことにしていたかもしれません。

急いで通り過ぎていたかもしれません。

あとで、と思いながら、また忘れていたかもしれません。

けれど、その日は、はたきを取りました。

蜘蛛の巣は、思っていたより簡単に払えました。

アーシャは、左のカーテンを開き、留め布でくくりました。

それから、右のカーテンも同じように開きました。

朝日が、窓から枕元へ差し込みました。

アーシャは、留め布を巻きながら、

カーテンにそっと息を二回吹きかけ、おまじないを唱えました。

「ふうふう、メルメル」

いつもなら、朝食の支度に急いでいたはずでした。

誰かに呼ばれる前に、動いていたはずでした。

自分の寝室のカーテンなど、あとでいいと思っていたはずでした。

けれど、その朝は、少し違いました。

心の中に したがう しかなかった時には、

気づかなかったものがありました。

カーテンを開ける音。

朝の光。

自分の部屋を、少し整えてみようと思う気持ち。

それは、何かを大きく変える力ではありませんでした。

すべてのコマンドが、いつでも使えるようになったわけでもありませんでした。

けれど、ひとつでも戻ったものがあると、

いつもの動きが、少しだけゆるむことがありました。

そのゆるんだところに、

今まで入らなかった小さなことが、

そっと置かれることがありました。

窓を開けると、新しい空気が入ってきました。

読み終えたあとに

この物語が始まった時、

アーシャはまだ気づいていませんでしたが、

心の中には したがう しかありませんでした。

見ずに進むしかない。

聞かずに進むしかない。

全部引き受けるしかない。

一人で抱えるしかない。

今すぐ動くしかない。

降りずに続けるしかない。

その一つひとつが重なって、

アーシャには、

したがう しかないように見えていたのです。

けれど、鈴の音に気づき、糸を溶かすことで、

一つしかないように見えていた応答の前に、

少しずつ、選べる余地が戻っていきます。

まず何が起きているのかを見ること。

分からないことを聞くこと。

できることと、できないことを分け直すこと。

一人で抱えず、外とつながること。

すぐに決めず、少し待つこと。

この形では続けないと、降りること。

物語の中で、それらは見つかったり、思い出されたり、見えなくなったり、心の奥へ押し込まれたりしました。

あなたには、どの場面が気になったでしょうか。

現実の場面でも、

気づかないうちに選択肢が狭まり、

一つの応答しか残っていないように感じることがあります。

実は、ここには描かれていませんでしたが、

したがう が続くと、はむかう に変わり、

はむかう が続くと、はぶてる ように閉じていくこともあります。

また、すべてが消えているわけではなくても、

ある選択肢だけが見えにくくなっていることもあります。

見ることはできる。

けれど、呼べない。

待つことはできる。

けれど、聞けない。

相談はできる。

けれど、降りられない。

その欠け方によって、

苦しさの形は変わります。

もし、この物語を読んでいる時、

「これは、物語やケーススタディの中だけで起きているわけではない」

と感じていたのなら、

その現実の状況についても、先生と一緒に点検することができます。

先生に聞けば何でも分かるというわけではありません。

けれど、その場面で、

自分には、どの選択肢が残っているのか。

相手には、どの選択肢が残っているのか。

欠けているように見えるのは、どの選択肢なのか。

それは、どの言葉や状況によって見えにくくなっているのか。

そして、いま一つ戻すとしたら、どの選択肢から戻せそうなのか。

それを、確認・質問・交渉・相談・保留・撤回の順に、

一緒に見ていくことはできます。

コマンド点検は、1回60分3,000円です。